Sources
Old World Wars. 1559年のカトー・カンブレシスの和約に続き、ほとんどのヨーロッパ王室は「境界線を越えた」戦闘は旧世界の平和的関係に影響を与えないという教義を受け入れた。 しかし、その逆は真ならず、16世紀後半のヨーロッパでの紛争はしばしばアメリカ大陸に及んだ。 これは、当時圧倒的な強さを誇っていたスペインが、新世界の領土から得た金銀をその力の源泉としていたことが一因である。 スペインの新世界帝国の重要性と脆弱性を認識していた列強諸国は、アメリカ大陸にあるフィリップ2世の領地を攻撃し、私掠船と呼ばれる船長を雇ってカリブ海のスペイン海運を急襲させるようになった。 彼らは定期的にキャロライン砦のような基地を作り、そこから財宝を積んだ船団を捕食することも考えた。 一方、スペインは新世界の入植地と宝船団が航行する重要なシーレーンを守るために、軍艦を派遣して海から私掠船を一掃し、北米沿岸にあるヨーロッパ人の基地を攻撃した
Origins. ヨーロッパの紛争が新世界に広がるというパターンは、1585年から1604年にかけてのイギリス・スペイン戦争の際にも当てはまった。 1530年代にヘンリー8世がローマと決別し、イングランドをプロテスタント国家と宣言して以来、スペインとイギリスの関係は悪化の一途をたどっていた。 ジョン・ホーキンス卿やフランシス・ドレイク卿が西インド諸島のスペイン領で無許可の貿易や私掠船の航海を行い、イギリス女王エリザベス1世とスペイン王フィリップの間の関係をさらに悪化させた。 1585年、エリザベス女王がオランダのプロテスタント反乱軍を助けるために軍隊を派遣し、スペインに対する反乱を起こしたとき、最後の決裂が起こった。 フィリップがイギリスの対スペイン貿易を禁止し、イベリア半島の港に停泊中のイギリス船を押収したため、両国は戦争状態になったのである。 1585年にオランダに軍を派遣したときから、エリザベスは戦争をアメリカ大陸に拡大する2つの政策を進めていた。 まず、スペインの新世界領有権に対する露骨な襲撃を開始した。ドレークの指揮の下、23隻、2000人の艦隊を西インド諸島に送り、スペインの主要港を占領し、財宝艦隊を攻撃するよう命じた。 また、ウォルター・ローリー卿に命じて北米沿岸に要塞を建設させ、イギリスの海賊がアメリカ大陸のスペイン船に対して一年中活動できる新世界の基地を提供するようにした。 最初に出航したドレークはカリブ海のスペイン商船を一掃し、カルタヘナ、サントドミンゴ、セントオーガスティンの各都市を略奪し、後者はローリーの植民地の安全を確保するために行われた。 一方、ローリーの部下は、ノースカロライナ州のアウターバンクスにロアノークという入植地を築いた。 しかし、インディアンとの紛争や援軍が来なかったことから、入植者は入植地を放棄し、ドレークの船団とともに帰国した。 ローリーは1587年に再びロアノーク島に入植地を設立したが、ここも失敗に終わった。 スペインはドレークの襲撃に対して北米の守備隊をセントオーガスティンに集結させ、ロアノーク植民地の設立に対しては攻撃に備えてその場所を偵察するために船を送ることで対応した。 カリブ海では小規模のイギリス人私掠船が続いていたが、1588年のスペイン艦隊の後、特にドレイクとホーキンスが1595年にスペイン西インド諸島を襲撃して失敗した後、英西戦争は主にヨーロッパの問題として残っていた。 1604年、戦争による財政的、人的損失から、スペインとイギリスはロンドン条約に合意し、この戦争は終結した。 先のカトー・カンブレシスの和約と同様に、ロンドン条約には「線を越えた」戦争はヨーロッパでは敵対行為を生まず、アメリカ大陸には「平和はない」という非公式な合意が含まれていた。 こうしてロンドン条約は、新世界での戦争はヨーロッパでの紛争につながらないという二国間ドクトリンを強化することになった。 同時に、この条約とそれに先立つ戦争は、旧世界での紛争はアメリカ大陸に拡大しうるし、拡大するであろうという考え方を強化したのである
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